1967(昭和42)年、秋田県能代市生まれ。
ただ、共働き世帯だったため、幼稚園卒園までは父方の祖父母の元(旧峰浜村)で育ち、小学校入学を機に両親の元(能代市)へ戻り、小・中・高共に市内の学校を卒業しました。
中学生の頃、父親の仕事の関係で、当時合川町の大野台という所にあった「秋田県立営農大学校」に中国から来ていた農業研修生の方たちと交流する機会があり、そこから中国、そして普段私たちとは日本語で会話している研修生の皆さんが自分たちの間で話す、当時の私には全く理解できない言葉(中国語)に興味を持つようになり、また皆さんが日本に勉強に来たように、いつか私も中国へ留学したいと思うようになりました。
高校入学を機に、「これからは汽車通学ができる」ということで、父方の祖父母と同居することになり、峰浜村(現八峰町)に引っ越します。
高校卒業後の進路として目指したのは「東京外国語大学中国語学科」だった(→進路相談で先生には「他の外大を考えたほうが……」と言われました)のですが、
残念ながら桜は咲かず……
この時、中国語を使う仕事をされていた父親の知り合いの方から、「将来中国語を使った仕事に就きたいと考えているのであれば、より実践的に学べる良い専門学校がある」とアドバイスいただき、
1986(昭和61)年4月、「日中学院(中国語本科)」(東京都)に入学しました。
そして翌年の9月、学校の交換留学制度の試験に受かり、中国(上海市)へ念願だった語学留学することができました。(→中国は9月入学)
ちなみに、私にとっては初めての海外渡航であり、且つまた長期滞在でした。
※ちなみに南京へは、上海へ留学してから、またその後北京へ転校してからと2度ほど旅行しましたが、「敵対感情が向けられている」と感じることは全くありませんでした。もしかしたら一人で行ったり、一緒に留学していた台湾や香港の友達と行ったりしており、“日本人”だと思われなかったからかも?
最初の留学先となった上海では、日常的には“上海話(シャンハイホァ)”と呼ばれる、いわゆる方言が使われており、私が勉強していた“普通話(プートンホァ)”と呼ばれる中国語の標準語はあまり使われていませんでした。
現在ではもうそんなことはありませんが、当時は“上海話”が分からない、話せないとちょっとバカにされるというか、街中で道を聞く時などに“普通話”で話しかけても、“上海話”で返されるということが結構ありました。
私は、「せっかく本場で語学の勉強をするんだから、やはりまずは“普通話”を中国人と同じくらい上手くなりたいっ!」思っており、上海の語学環境はあまり良くないなと考え、冬休みに2年目の転校先として、語学環境が比較的良く、尚且つ日本人があまりいない所、学校を色々と探して歩きました。(→交換留学制度は2年間のものでしたが、留学先を変更することも可能となっていました)
そして2年目の1988(昭和63)年9月に黒龍江大学(黒龍江省ハルピン市)へ転校しました。
中国語の標準語である“普通話”は、北京で話されている“北京話(ベイジンホァ)”の発音や中国北方エリアの言葉が元になっているので、一般的には「やはり首都でもある北京で勉強するのが一番良い」ということになるかと思いますが、当時北京の日本人留学生は非常に多く、日本人だけのクラスや寮生活でのルームメイトも日本人というのが一般的で、そうなると日常生活の中で中国語を使う機会がどんどん少なくなってしまうと思い、北京への転校は全く考えませんでした。
いっぽう黒龍江省は、北海道のように昔、開墾・開拓するために外からたくさんの人がやってきたという歴史があるためか、広く“普通話”が使われてきていましたし、アナウンサーにハルピン出身の人が多いという話を聞いたこと、また実際に訪ねた際の街、そして学校の印象も良く、「まぁ国は違うけど同じ東北地方だから馴染みやすいかも……」と思い転校を決めました。
そしてここでは、「好きこそものの上手なれ」ということで、学校の授業だけでなく、自分の好きな分野、興味の持っている分野でも中国語を使うようにしたらもっと上達するのでは?と考え、子供の頃から音楽が好きだったことから、個人的な課外授業として中国の民謡である“民歌”を勉強するようになりました。
しばらく経ってから、その歌の先生に、「もう少し本格的に勉強したら、外国人としてはイイ線いくかも……」と言っていただき、単純な私はすっかりその気になり、「それにはやはり北京の大学で勉強したほうがいい」というアドバイスで、半年後の1989(平成元)年3月に、今度は北京にある中央音楽学院(声楽科)に転校し、中国民歌を学びました。(→1990(平成2)年7月まで。ちなみに日中学院は、2年間の交換留学が終わった1989(平成元)年7月に卒業試験を受けて卒業しました)
そしてだんだんと、「音楽に国境はない」と言われるように、「言葉や文化、生活環境などなど全く異なっていても、同じ人として共通する喜怒哀楽といった感情を表現する音楽を通じて、日本と中国の文化交流の面で将来何か仕事をしていけたらなぁー」と考えるようになりました。
うちは両親が、「大学を卒業するまでは親の責任で面倒を見る」という考えで、「日中学院入学からだとほぼ日本で四年制の大学に通うのと同じくらい勉強した」ということで、中央音楽学院での学業修了後、日本へ戻り就職しました。
就職の方向性としては、もちろん中国に関係したこと、更には文化的な交流活動に携われたら良いなぁーと考えて、日中友好協会の採用試験を受けたのですが、結果は不採用。その後1990(平成2)年9月、東京の新宿にあった日本語学校に就職し、主に中国人学生を担当する事務職スタッフとして働きました。
ただ、自分では歌の勉強をもう少し続けたいという思いが強く、1年半後の1992(平成4)年3月に退職し、5月から今度は自分のお金でやはり北京にある中国音楽学院(声楽科)に留学し、そこからまた3年間(~1995(平成7)年7月)中国民歌を学びました。
ちなみに、この歌の勉強を終えた時には、北京で恐らく外国人としては初となる中国民歌のリサイタルを開きました。また秋田でも、中国民歌に興味を持ってくださる方たちが企画してくださり、大仙市(旧協和町)にあるまほろば唐松能楽堂でコンサートを開いています。
※さらにちなみに、現在の中国の“ファーストレディ”である彭麗媛さんは、元は中国で有名な歌手だった方で、中国音楽学院の声楽科で学ばれていたんですよ!残念ながら私が転校した時にはすでに卒業されていましたが、中国で最初の民族声楽科での修士号を取得されて、その記念リサイタルを開かれた時は、ちょうど中央音楽学院で勉強しており聴きに行きました。
中国民歌もたくさん歌われており(→特にご出身である山東省の民歌)、憧れの歌手のうちのお一人でした。
【北京でのリサイタル】
【まほろば唐松能楽堂でのリサイタル】
ですが、残念ながらその後も文化交流の取り組みを具体的な仕事にするには至りませんでした。
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